私が二人目を自宅で産もうと思ったのは、
私の死ぬときは、家で最期を迎えたいなと思ったから。そこが究極なところです。
祖母が亡くなるとき、病院に運ばれ否応なく挿管され酸素を入れられ、点滴を入れて、でも心臓は動いているから病院で1ヶ月半生きました。
だけれど、私たち親族は、おばあちゃんの傍らにいて、おばあちゃんはこの状態で生きているのか、無理やり生かされているのか、誰のために生きていてくれているのか、
それぞれの心で考えたんです。
お別れの時間だったかもしれません。いのちが亡くなる覚悟の時間だったかもしれません。
だけれど、私は、おばあちゃんはもういのちを終えたいのよ。と言っているように感じたのでした。
おばあちゃん子だった私は、おばあちゃんの死を見て、
ああ、家でいのちを終えたいなと思った。おばあちゃん、家に帰りたい帰りたい、そう一度入院したときも言ってたから。きっと早く家に帰りたかっただろうなと。
いのちが終わる時が家であるならば、いのちがこの世に生まれてくる場所は、家がいい。
家族がいて、そして自分が自分らしくいられる場所。
心も身体も開いてゆける場所、それが私にとっては家であったし。日常の中でいのちが生まれる。
それは自然なことだから。
先日、一緒に活動しているりんごの木のメンバーYさんのお父様が亡くなられました。
彼女は家でお父さんを看取ることを決めて、そのいのちの有り様に寄り添いました。いのちってね、どんどん枯れてゆくのよね。それがほんとに自然やの。
そう教えてくれた。
亡くなられる前も、周りで一緒に寝たり、食べたり、そしていのちの灯が消えたときも、また家族で寝て、お別れを惜しむように過ごす時間。
そのように日常の中でいのちが生まれ、終えてゆく、
いまの世の中ではとても難しいことなのかもしれないのだけれど、なんだか尊厳が守られているような、人間らしいような気がしたのでした。生まれる場も、終えてゆくときも大事なことって似ている気がする。
空の雲がね、Yさんのお父さんが天に昇ってゆくような気がして。
そんな思いで見上げた空でした。
思うより
ひとはつよい
生まれてきた
つよさで
生きればいい
からっぽで 降りてきて
からっぽで 帰ってゆくだけ
何も持たずに 空から、空へー
中島未月 「だから優しく、と空が言う」